世田谷区に対応しているポスティング業者紹介の世田谷区ポスティング.com|世田谷区の歴史

「世田谷区ポスティング.com」のサイトに関するお問い合わせ電話番号

世田谷区あれこれ

世田谷区の歴史

世田谷区の歴史の写真

 原始・古代

世田谷区に人が住み始めたのは、今から約3万年位前からといわれています。世田谷の地は大部分が大雨が降るたびに、土や砂・小さな石が流されてきて積み重なり、だんだんと陸地なるような洪積台地上にあって、縄文時代には豊かな森と湧水に恵まれた生活の場であったとみられ、その後の農耕中心の歴史時代にあっては、大部分が開発の遅れた土地であったと考えられています。その場所近辺では、多くの遺跡が確認されています。代表的なものとしては、瀬田遺跡、嘉留多遺跡、堂ヶ谷遺跡、下山遺跡などがあり、先土器時代や縄文時代、弥生時代の文化を知ることができます。

 鎌倉・室町・戦国時代

武蔵国木田見郷が鎌倉時代から、江戸氏一族・木田見氏の領地であったことは、「熊谷家文書」などの文献により明らかになっています。木田見氏滅亡のあと、世田谷では、足利氏の親族である吉良氏が来ました。吉良氏は現在の上町のそばに世田谷城を築きました。中世には、はるかに大きな城域であったとみられ、この地域に一大勢力をもっていたとみられます。

室町時代中期の関東大混乱の際には、吉良氏は太田道灌と結び、江戸城に入って幕府方として長尾勢と戦っています。このころは、まだ豪族地主は直接的に土地や農民を支配していました。

しかし、戦国時代ともなると、北条氏が力を持ち、吉良氏は北条氏の配下となりました。北条氏は軍事上の目的で世田谷に宿場をつくり、そこを繁盛させる為に、当時としては革新的な誰でも参加できる楽市を開きました。これが現在まで伝わるボロ市となっていきます。

 江戸時代

家康が関東に入国すると、世田谷にあるほとんどの村がその直轄領となり、代官・松風助右衛門の支配下に置かれ、喜多見氏・藤川氏らの旗本7人が、喜多見村・深沢村・経堂在家村など都合9ヵ村に給地を与えられました。

寛永年間に入ると、大幅な領主替えが行われ、天領15ヵ村(後20ヵ村)が井伊家の江戸屋敷賄料(まかないりょう)として、彦根藩領に組み込まれたのをはじめ、14ヵ村が旗本領に、1ヵ村が増上寺領に替わりました。その間、村々は新田畑の開発が進み、飛躍的に生産力が増しました。元禄8年(1695年)には、増大した生産高を把握するために検地が施行され、村高(公定生産高)が確定しました。元禄期は近世村落の支配体制が完成した時期であり、この時確定した村高は明治維新まで変更されることはありませんでした。

 明治時代

明治時代に入ると、めまぐるしく所属や区域が変わっていきます。東京府の開設、名主制度の廃止、その後、廃藩置県により現世田谷区の範囲の内、中部・東部の村々は東京府荏原郡に、西部の村々は神奈川県の北多摩郡になりました。その後も何度か他のエリアを編入したりすることになります。明治期の世田谷の景観は、近世以来の農村景観を呈していたと考えられ、甲州街道・大山街道沿いなどに街村がみられる他は、塊村が散在する農村集落だったとみられています。田んぼや畑のほか、森林や雑木林となっていました。明治期に世田谷に立地した近代施設としては駒場・駒沢方面の軍施設があり、また玉川電気鉄道が開通する明治末年には新宿・渋谷に近い東部では宅地化の兆しが見られました。

日清戦争後、経済界の活況によって東京の市区改正事業をはじめとする土木・建築事業が大いに進捗しました。洋式建築や土木事業の進行は、資材としての砂利の需要を高めました。そして多摩川の砂利の供給のために鉄道の敷設が計画されたのです。こうしたなか、玉川電車(渋谷~玉川)が明治40年(1907年)に開通しました。

 大正・昭和時代

大正から昭和初期には京王線・小田急線・大井町線・井の頭線などが開通します。関東大震災が発生すると被害を受けた下町の人々は地価が安く交通の便のよい近郊へ移住し、世田谷も急激に人口が増え、電車の沿線は住宅地に変貌していきます。郊外に避難した人々がそのまま住み着いたというような話もありますが、復興都市計画事業の進行に伴い、郊外に移住する例も多かったといわれています。烏山には都心で被災した寺が22ヶ寺も移転し、寺町を形成しています。

第二次大戦の終わりころ、世田谷も空襲に遭い被害を受けました。しかし空襲による損失が比較的少なかったため、戦後から昭和40年代にかけて人口が急増しました。また、元々、駒沢ゴルフ場であった駒沢オリンピック公園は、1940年に行われるはずだった東京オリンピックのメイン会場でしたが、中止となりました。のちに東京オリンピック(1964年)の開催に伴うスポーツ公園の整備(当地はサブ会場としてサッカー、バレーボールなどを開いた)を行うため東京都に用地を返還し1962年から工事に取り掛かり、1964年に完成しました。周辺には、東京オリンピックの際、バレーボールの練習場となった駒澤大学講堂兼体育館(6号館)や東京都選定歴史的建造物に選定されている駒澤大学耕雲館(禅文化歴史博物館)があります。

 平成時代

現在、80万区民の住む住宅都市となった世田谷区ですが、開発が進む中で、緑化の推進や環境保全など、都市の中でも潤いのあるまちづくりに取り組んでいます。

 世田谷区の成立

昭和7年(1932年)10月東京市の区域が拡張され、世田谷も東京市に所属し世田谷町・駒沢町・玉川村・松沢村の2町2村で「世田谷区」が成立誕生しました。さらに、昭和11年(1936年)10月には北多摩郡であった千歳・砧村の2ヵ村が世田谷区に編入され、昭和40年代には都心からの移住や高度成長期の首都圏への人口集中化などにより、農村地区から一挙に都内有数の住宅地区となりました。

(世田谷区資料提供)